岩坂彰の部屋

第4回 ロジックのリズム

岩坂彰

翻訳を依頼されるときにいちばんよく言われるのは、「読みやすく訳してください」という言葉です。「読みにくく訳してください」なんていう依頼はないでしょうから、まあ当たり前といえば当たり前の要望なんですが、でも「読みやすさ」って何でしょうか。

さしあたり、ひっかからずにすっと読める、という意味だとしましょう。元に戻って読み直せることが耳で聞くのとは違う印刷物の特性だとしたら、読み 直す必要のない本というのは本の本質から外れているのではないかという根本的な疑問はさておき、たしかにぶつぶつと切れてしまって読みにくい文章というの はあります。

翻訳の場合、いわゆる直訳調で訳すと、「彼は~した。」「~することは~ことである。」のような文章ばかり並んで、読みにくくなります。これは言葉 のリズムの問題で、リライトするとしたら、文末の形に変化を付けたり、述部を副詞化したり、いろいろ操作して流れを作ることができます。けれども、私がこ れまで自分の訳文を推敲したり人の翻訳に手を入れたりしてきた経験からすると、それでは問題の半分も解決できないというのが実感です。

「すっと読める」ことのポイントは、単なる言葉のリズムではなく、今読んでいるその文章がどっちの方向に向かっているかが読み手に分かりやすい、ということではないかと、私は思うのです。

暗黙の決まり事

どっちの方向か、というのは、たとえば今書いた意見に対して、次の文が肯定的か否定的かということや、次に理由を説明しようとしているのか、結果を 述べようとしているのか、といったことです。接続詞を使えばそれを明示できて、「だから」「しかし」「なぜなら」「そのため」などが使えます。けれども、 逆接以外は、接続詞がなくてもだいたい分かるものです。私たちは、無意識のうちに次の流れを予測しながら読んでいるからです。今、上の行の「分かるものです」に続く文をお読みになったとき、最後の「からです。」に至る前に、これが理由の文だとお分かりになったはずです。つまり、そういうことです。

このコラムからもう一つ例を挙げると、前の前の段落が「ということではないかと、私は思うのです。」で終わって、次の小見出しが来たときに、みなさ んは、これは「どっちの方向に向かっているか分かっている」ということの説明が始まるんだなと、何となく思って読み始められたのではないでしょうか。こう いうことは、英語でも日本語でも変わらない、暗黙の決まり事です。例えば、起承転結なんていうのは、その一例です。こう来たら、こう行くんだろうなという 予想が立つ形と言いましょうか。起承転結は文章全体のレベルでのロジックの組み立てですが、個々の文章のつながりのレベルでも、段落の組み立てのレベルで も、同じようなことが言えます。

読み手が予想する方向に文章が流れていく、あるいは文章が流れていく方向を読み手に予想させる――読みやすい文章というのはそういうものですが、そ ういう訳文にするには、まず訳者が、書き手のロジックの流れを感じ取らなくてはいけません。英語のニュース記事でも、起承転結に似たロジックがあります。 その流れが感覚的につかめてくると、このあたりで反対方向の意見の紹介がありそうだな、とか、最後はremains to be seen(もう少し様子を見なければ分からない)で終わるんだろうな、とか予想できるようになります(予想通りに進むとしたら、それは英文として「読みや すい」記事です)。そういう全体の流れをきちんと把握したうえで翻訳していくことで、文から文への方向性の積み重ね、つまりロジックの流れが生まれ、「読 みやすい」訳文になるのだと思います。

時間に追われて翻訳をしていると、つい目の前の文章を「とりあえず」日本語化しておきたくなります。けれども、そこはぐっとこらえて、その文章が「何を言っているか」だけでなく、ロジックの流れの中で「なぜそこに書かれているのか」が素直に納得できたときに、日本語にするべきなのです(「素直に」というところが肝心)。ここをないがしろにすると、あとで表面的な推敲をしても、どうにもなりません。

基本のリズムとバリエーション

ロジックを読み取る感覚というのは、かなりリズム感に近いものがあるように思います。

私は長野県の出身ですが、大学時代に関西に来て以来30年以上関西圏で暮らしています。来た当初は、正直なところ、吉本新喜劇が楽しめませんでし た。漫才を見ても、どちらがボケでどちらがツッコミかすら分からなかったものです。それでも、ここでボケが来るはず、という感覚が身についてくると、しっ かりと笑えるようになりました(それでも、村上ショージの笑いが分かるようになるまでには10年かかりましたけどね)。これもやはり、ロジックのリズム感 なのだと思います。

サッカーをご覧にならない方には分かりにくいたとえかもしれませんが、ボランチがボールを奪って中盤をドリブルで上がっていくとき、ぽっかり空いた 相手の右サイドのスペースに味方のサイドバックが追い越していくとします。見ている側は、ここでボランチがタメを作って右に出すことを、とりあえず予測し ます。お決まりのパターンです。けれども、中央のわずかなスペースに逆サイドから走り込んだフォワードにクサビのパスが入ったりすると、一気にチャンスに なって、観客はおおっとどよめくのです。これは、あえてロジックを崩すリズムですね。もう一つの定型とも言えますが。お笑いで言うと、ノリツッコミとかダ ブルボケとかいうやつです。

文章もやはり、定型のロジックの上に、このようなオプションの変形が加わり、それが「味」や「面白さ」を生んでいきます。そういうものを味わい、さ らにそれを日本語に置き換えていこうとするのなら、まず第一に、基本的なロジックのリズム感というものを身につけていなければなりません。


スタジアムに行くと、こんなふうに全体が見渡せて、ゲームのリズムがよく分かります。

どんな基本リズムで書かれているかは、書き手によりさまざまです。学者さんの中でも、「その理由は3つある。第1に……」というような、箱の隅から ものを詰めていくようなロジックをベースにする人もいれば、具体事例から入って、最後になって全体像が見えてくるような流れを作る人もいます。ドイツの サッカーとブラジルのサッカーの違いとでもいいましょうか。その基本の組み立てがイメージできていると、ある中盤の選手がパスではなくドリブルを選んだプ レーの面白さも、また違って見えてくるものです。

こういった基本的なリズム感というのは、ある程度文章なりスポーツなりを「その気で」見ていれば、理屈なんて関係なく自然に身につくものだと思います。

ノンフィクション翻訳家としていちばん大切な力

大手スポーツメディアはいつまで経っても「スターシステム」(一部の特定選手をスターに祭り上げて人目を引きつけようとする戦略)に頼ってサッカー そのものを報じようとしませんが、見ている人はそれほど愚かではありません。スタジアムで、スカパーで、サッカーのロジックを楽しんでいます。けれども、 楽しみの深さは、やはりどれだけ自覚的に全体の流れを見ようという意志を持つかどうかで変わってくるはずです。「その気で」見なければ、例えばなんとなく ボールだけ追いかけて眺めていたのでは(それはそれで楽しいものですけれど)、いくら見ても分かってこない部分はあるでしょう。私も偉そうなことを書いて ますが、プロのサッカーコーチたちは、私などとは比べものにならないくらい、もっと厳しく、そして楽しく見ているに違いありません。

誤訳はないんだけれども読みにくい、という訳文を評価して、「英語力はあるけれど日本語力がないのでしょうか」とおっしゃる方がいます。けれども、 私の見るところ、たいていは「英文は読めているけれども、文章のロジック、つまり文意がきちんと読めていない」のです。日本語力以前に、「テキストを読み 取る力」が不十分なのです。書き手の意図が写し取られていなければ、たとえ個々の文章の内容が正しくても、翻訳の意味がありません。ロジックの感覚は誰で もある程度無意識に身につくものだとはいえ、プロとしては自覚的にそれを感じ取ろうという意志が必要です。

おそらく、ノンフィクションの翻訳をするうえでいちばん大切な能力は、この、暗黙のロジックをリズムのように感じ取る力ではないかと私は考えていま す。加えて言うなら、「ここはロジックが読めていないかもしれない」という危険察知能力でしょうか。ノンフィクションの仕事では、感覚だけでは対処できな いことが、必ずあります。書き手もいろいろですから。そういうときには、意識して暗黙の世界に降りていく必要があります。しかし、その「ヤバそうだな」と いう危険察知自体、実はかなり感覚的なものなんですよね。

途中からサッカーの話になってしまいましたが、ロジックの話はもう少し続きます。


(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2008年5月26日号)